どんなにかなしくても

 

あの子をうしなって以来、決して望んでは居ないのに継続してしまう日常生活のなかに、

更に、決して望んでは居ない地雷が数えきれないほど埋め込まれていることを思い知らされた。

誕生日、入学式、卒業式、あの子と一緒に歩いた道‥‥‥

その日の気配を感じたりその光景を目にするたびに、不意に地雷を踏んでしまう。

ああ、もうすぐあの子の誕生日、

街なかで正装した親子連れが行き交う入学式シーズン、

今日は卒業式なのか、袴姿の女の子達が歩いている…

そうした光景が不意に視界に入って来る度にあの子を思い出して感情がこみあげて来る。

でも、

そんな月日が長く続いてもう10年以上も経った近ごろ、

こうした地雷にも変化があることに気づいた。


以前は、誕生日やセレモニーや具体的な場所など、 “わかりやすい地雷” が多かった。

だから、事前に心の準備をしてそれを踏まないように避けることが出来るようになっていった。

しかもそれが年月と共に段々上達していった。

だから少しずつ楽になっていたような気がする。


だけどその一方で、

“わかりにくい地雷” というものがあることに近頃気づきはじめた。

 

それらは具体的なセレモニー等とは無縁の、ほんのちょっとしたささやかなものだ。

それは曲のフレーズの一部だったり、マイナーな作家のかなり古い小説の背表紙だったり、

TVの映像に突然映し出される地方の景色だったり…と、

わかりにくくてほんのちょっとしたものばかりだ。

そういう地雷もかなりあって、しかもそれらは避けることが難しい。

出くわして踏んでしまうと、やはりたちまち沸き起こる感情の波を抑えられなくなる。

 

だけどそうした、“わかりにくい地雷”  を踏むたびに近頃気づいたことがある。

かなしみの度合いや深さは以前と決して変わらないのだけれど、

そのかなしみが以前よりしーんと静かであること、

そして、そのかなしみの中で、

こんなにちょっとしたことなのにあの子にまた会えた、そんな気もして、

かなしみの中に、ほんのうっすらとした喜びの気持ちさえあるように思えることだ。

 

どんなにかなしくても、その中にあの子との思い出があって、

その思い出のなかであの子とまた会えるのならば、どんなにかなしくても構わない、

そんな風に近頃は思っている。


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